ゆるいにっき。3

 

いま必要なものは美味しく感じるらしい。

例えば、喉が物凄く乾いている時には水を飲むとめちゃくちゃ美味しく感じるように。

寂しい時の寝落ち通話が至福に感じるように。

 

わたし、"今"美味しく感じるやりたいことをやることを徹底して生きていきたい。

 

昔から"今はお前が言っているようなやりたいことをやるな""そんなこと大人になったらいくらでもできるんだから"

と自分の親だったり、大人だったり

昔からの友人に言われたりしてなんとなく流されてやりたいことをやれずに生きてきた。

でも結局は大きくなってそれをやりたい熱は冷めてしまっても、"やらなかった"という心残りだけが残った。

 

10代中盤までは、"いい子でいなければわたしにはどこにも居場所がない"と思っていた。

親が認めるようなことをひたすらやってきたし、親にとって自慢の娘でいなければならないと思っていた。

高校に入ってから疲れてしまってそういう生き方にほとんどグレた。

本当は親が認めるようないい子でいたかったけれど、自分にはそのポテンシャルがないことに気づいてしまって絶望した。次第にそれまで当たり前にやってきていた朝起きることだったり、普通に授業に集中したりすることがままならなくなっていって、周りの子よりも多少はできると自負していた絵に没頭するようになり、長く続けていた部活動をやめた。

 

そして絵も18の頃に鬱になるような事情で一度やめてしまった。それでも自分の精神を支える手段が絵しかないから、自分が生きていると実感できる方法が絵を描いて、「描いたよ!」って言うことでしかないから絵を描いている。

 

鬱時代に親に言われて入った大学も通えなくなってやめてしまった。一年しか通わなかったけれど学費もめちゃくちゃ高かったと思う。

そう。自分は既にいい子ではないのだ。

社会的ないい子でいられるようなポテンシャルがなかった。

 

だから、自分は自分がやれることが絶対に鬱にならないような楽しい方法で生きていくしかないことを知っている。

周りになにを言われようと、自分みたいな精神的弱者は自分のやりたいようにやっていくしかないのだ。

 

「明日もやってもいいかな」って思えるようなことを徹底してやっていく覚悟を意識的に持ってやっていないとブレちゃう。

私は元々生きることにそこまで執着がないタイプなので、いろんな大人や強そうな人に洗脳されそうになっちゃうんだけど、もしその人たちのいう通りに生きていてもその果てにまた鬱になったりすることがわかりきっている。

 

わたしはお金と幸福だったら後者を大切にする人間になりたい。

お金も勿論必要だけれど。鬱時代に幸せな瞬間を味わえない苦しみをわたしは少なくとも同世代のひとたちよりも味わってきたと思う。

ふとした瞬間に幸せを与えてくれるひと、

幸せを幸せだと受け入れられる自分の精神状態にとても感謝している。

ここでは上手に話せないこともあるけれど、

自分は今年に入ってからたくさんの愛のある方々に巡り合って、日々涙がでてくるほどの幸せを感じている。

そういう幸せを与えてくださったひとたちに尽くすことだけで生きて生きたい。それで食いっぱぐれたら死ぬだけだと思う。

 

現実的じゃないって言ってくれる方もいるけれど、苦手な方法で生きていくのは自分には無理だと割り切るしかないと思ってる。

 

し、どのような人生を望んでも幸福はその人の覚悟次第なんだろうなって思う。

これからわたしに必要なのはその覚悟を磨いていく作業を、色々な人々に対しての感謝からくる熱量で、美味しい!美味しい!って夢中になってやっていくことだなあってなんとなく思います。むしゃむしゃと。

 

きょうのにっきおわり。